はじめに
近年、白内障手術のほとんどは超音波乳化吸引術(PEA)で施行されている。術式や器機の進歩に伴って安全性と手術成績は向上し、PEAは今日最も洗練された眼科手術の一つとなった。とは言え、前房という狭い閉鎖空間で水晶体を処理することに伴う近傍組織障害のリスクは依然としてゼロではない。臨床上、最も頻度の高い合併症は、後方では水晶体後嚢の破損であり、前方では角膜内皮障害である。このうち水晶体後嚢の破損は、手術器機の改良により前房深度の安定性が増して発生率そのものがかなり減少した。また、もし発生しても手術時に適切な処理ができれば重篤な後遺症を残すことは稀である。一方、角膜内皮障害はいったん発生すれば術中の処理による対処は不可能であり、より長期的なQOVの低下を招く可能性が高い。なぜなら、ヒトの角膜内皮細胞は分裂能が無いため、高度の内皮障害は不可逆的な水疱性角膜症に至り、霧視や眼痛をきたすからである。日本人の場合、遺伝性の角膜内皮ジストロフィは極めて稀であることから、水疱性角膜症のほとんどが医原性であり、その大半が白内障術後である。残念ながら今日、水疱性角膜症の発生件数は増加傾向にあるのが実情と思われる。PEAの件数そのものが増加していることに加え、水晶体核硬度の高い症例や角膜内皮予備能の少ない症例に対してもこの手術が行われるようになったことがその一因であろう。いずれにしろ、PEA術者にとって角膜内皮障害の抑制は残された重要な課題である。
従来、PEAにおける角膜内皮障害の原因としていくつかの因子が挙げられてきた。手術時間)、発熱、水晶体核硬度、乱流により引き起こされる水晶体核片の衝突および気泡などが術中に留意すべき障害因子として知られている。このうち特に重要なのは水晶体核硬度であろう。核が硬ければ当然手術時間は長くなり、チップの温度は上昇し、さらに核片の衝突によりもたらされるダメージも大きくなることは容易に推測されるからである。これらの現象をPEAのメカニズムから考えると、超音波エネルギーを利用するという術式に不可避的に伴う因子と、灌流・吸引の水流により引き起こされる因子、の2つに分けることができる。たとえば発熱は前者であり、水晶体核片の衝突は後者である。発熱については超音波チップの改良により対応されてきた。また、水流に伴うものについては、潅流・吸引の設定や核片処理の技量によりある程度解決が可能であろう。しかし実はもう一つ、超音波エネルギー使用に不可避的に併存し、技量では如何ともしがたい障害因子がある。それはフリーラジカルの発生、すなわち酸化ストレスである。フリーラジカルの細胞障害性を考えると、PEAに伴う障害因子として今まで軽んじられてきたように思われる。本稿ではPEAにおける内皮障害について酸化ストレスという観点から解説する。
超音波医療機器:組織障害性の検討
超音波を応用した医療器機は大まかに超音波診断装置と超音波手術器機の2つに分けられる。マーケットという観点から見れば圧倒的に診断的装置の方が大きく、断層撮影や距離測定のために心臓、肝臓などの臓器診断や胎児診断のために広く用いられている。一方、超音波手術器機は超音波メスなどをさし、PEA装置もこれに含まれる。いずれも超音波を人体に適用するため、組織障害性に関しての考慮が必要であることは言うまでもない。超音波が組織に及ぼす影響は、熱効果と非熱効果に分けられる。熱効果とは超音波エネルギーが熱に変換されることによるもので、PEAで言えばサーマルバーンがこれにあたる。一方、非熱効果の代表がキャビテーションとそれによりもたらされる衝撃波、そしてフリーラジカルの発生である。診断装置ではメガヘルツレベルの高周波数、低エネルギーの超音波が使用されるが、上記の効果について詳細な検討がなされ、今までのところ悪影響を及ぼすという明らかな証拠はない。一方、PEAを含めた超音波手術器機においては、用いられる超音波はキロヘルツレベルの低周波数、高エネルギーで、診断装置に比べて危険性が高いにもかかわらず、超音波による組織障害性に関する知見は未だ少ないのが現状である。手術機器であるから、対象とする組織が切開あるいは破砕されるのは当然であるが、問題は操作対象の近傍組織への影響である。PEAは操作の対象である水晶体の近傍に脆弱な角膜が存在する点で、外科領域で用いられる超音波メス等とは異なる観点が必要である。
超音波とフリーラジカル
水中で高エネルギーの超音波を発振すると、フリーラジカルが発生することは理学や工学の領域では古くから知られていた。その原因となるのはキャビテーション(空洞現象)である。キャビテーションとは超音波による強力な音圧変動の結果、陰圧時に水中に気泡が発生し陽圧時に気泡が圧潰するという現象である。気泡の圧潰時に発生する衝撃波により数千度、数百気圧という状況が出現すると言われ、精密器機の洗浄などに用いられる超音波洗浄機はまさしくこのキャビテーションを利用して洗浄効果を得るものである。一方、このエネルギーは周辺の水分子にも及び、水分子を直接分解する。この現象(H2O→・OH +・H)はSonolysisと呼ばれるが、ここで発生する・OHすなわちヒドロキシルラジカルは種々の活性酸素種の中でも最も障害性の高い分子種である。同様の現象は放射線エネルギーでも起こり(Radiolysis)、放射線による組織障害因子の一つであるラジカル産生の原因となっているが、これと類似した現象が超音波でも起こっているのである。
PEAは、ピエゾエレクトリック振動子を利用して、およそ40〜50kHzという周波数で先端の金属チップを振動させ水晶体核を破砕、吸引するという術式である。したがって、超音波チップは超音波を発振するための装置というより超音波を発振するメカニズムを利用した超高速振動ジャックハンマーと呼ぶべき器機である。つまりPEAにとって超音波は、メカニズムにおいては本質的であるが目的においては付随的である。しかし、付随的ではありながら水中で超音波を発振することによる現象は、上記の如く不可避的に発生してしまうことなる。
PEAとフリーラジカル
実際にPEAで用いられている装置でもフリーラジカルが産生されていることは、試験管的な条件下では既に90年代初めには報告されている。しかし臨床的条件下でのフリーラジカル発生を検討するためには、考慮しなければならない因子が少なくとも2つ存在する。一つは絶え間ない灌流と吸引による前房水の交換である。もしフリーラジカルが発生するとしても瞬時に交換されてしまう可能性があるからである。もう一つは粘弾性物質の使用である。粘弾性物質はもともと前房の空間維持や眼内レンズ挿入時の水晶体嚢拡張のために用いられてきたが、主成分であるヒアルロン酸は、実はそれ自身がフリーラジカルスカベンジャーであり、前房水中のラジカル濃度を修飾する可能性があるからである。実際、角膜内皮細胞に対する酸化ストレスをヒアルロン酸が抑制することは、既に他の実験モデルにおいて証明されている。
これらを条件下に入れた模擬眼によるPEAシミュレーションの結果、以下が明らかとなった。
(1)灌流吸引下でも、ヒドロキシルラジカルは前房内に発生する。
(2)粘弾性物質は、同ラジカルの発生を抑制する。
(3)その抑制効果は、粘弾性物質の前房内貯留度に依存する。
以上は、粘弾性物質をより残しやすい設定は、水晶体核片の衝突などを防ぐのみならずフリーラジカルという化学的障害からも角膜内皮を守る効果があることを示している。
フリーラジカルと角膜内皮障害
以上からPEAにおいては前房内に実際に傷害性のたかいヒドロキシルラジカルが発生しうることがわかったが、では実際にこのラジカルにより角膜内皮細胞は障害を受け得るのであろうか。これについては、動物実験においてラジカルスカベンジャーであるアスコルビン酸(ビタミンC)を潅流液に追加することにより角膜内皮細胞障害が明らかに軽減されることや、PEA術直後の前房水を採取し、酸化ストレスマーカーであるLipid peroxideが超音波時間に相関することといった間接的な証明の他に、前房内における超音波発振(水晶体操作無し)により角膜内皮細胞の脱落が生じ、その細胞群にDNA酸化ストレス障害が示された(図)という直接的なエビデンスも報告されており、程度はともかく、現象としては確実と思われる。
以上より、PEAにおける角膜内皮障害因子として様々な要因があり得るが、その重要な一つとしてフリーラジカルの存在は常に念頭に置く必要があると思われる。